今週はあんまし記憶がない。


本の森ちゅうおう

「勤労福祉会館」という名の、具体的にはどう利用するのかあんまりよく分からないままだった施設がもう10年位(てきとう)前に取り壊され、その跡地に図書館が出来るっぽいという話があるにはあったが、建設業者の入札がなかなか決まらないとかなんとかで、そこそこの広さの敷地が長い間ほったらかされていたのが、2,3年前にようやく工事が始まって、つい先日図書館が完成した。

計画を区のページか何かでチラ見した時は「店舗との複合施設になる」みたいな文言を目にしたような記憶があり、てっきりもっとがっつり飲食店とかが何件も入る建物になるものだと思い込んでいたのだけど、1階のエントランス横に小さめのカフェがあるだけで、あとは郷土資料館があるだけの、思いの外まっすぐ図書館だったので良かった。名前がいちいち口に出すのがめんどくさい感じで、どう読んだものか悩ましいのはともかく。

建物は、5階建ての2階から5階が図書館になっており、北側がガラス張りになっていて採光面が広いおかげで、歩き回ってみるとそこまで広くも無いけど、開放感があって狭くも感じないような雰囲気。そういえば図書館絡みのニュースで「窓がデカすぎて本が焼けるのでは」みたいな意見が出てくるのよく目にするけど、直射日光が入らなければ大丈夫だったりするんだろうか。時間はかかるけどいずれは焼けそうな気がしないでもない。

また縦の移動が多くなる作りは、エレベーターがあるにせよ足腰の悪い人にとってはアクセシビリティが良くなさそうには感じてしまった。まあそこまで頻繁に階をまたいで利用する利用者は多くないのかも知れないけど。

蔵書に関してはそんなに確かめていないものの、なんとなく絵本や児童書の棚にスペースが割かれていたというか、2階の半分が当てられていたのは印象が良い。

これが出来る前の家から最寄りの図書館は、築地の区役所の半地下みたいな空間にあったので、全体的に薄暗く、新しく越してきた人などにとっては、特別蔵書が多いわけでもない以上はあんまりそそられない施設だったろうなと思うのだが、自分が子どもの頃は他に軽い気持ちで行く図書館の選択肢もなかったし、読みたいものは自分で買ってしまうようになる以前は普通に利用していたんだよなというのを思い出す。

数少ない漫画っぽい要素だったホビージャパンを熟読していたなとか、児童コーナーにはイラストを描いて投稿箱のようなところに提出すると貼りだしてくれるので、ガンダムとか描いていたなとか。

そんな思い出話はともかく、せっかく近場に綺麗な図書館があるのだしこまめに利用してやりたいところ。


大叔母の葬儀

先週末に亡くなった大叔母の葬儀。配偶者であった大叔父の葬儀が、本人の希望で無宗教形式だったので今回もそうなのだろうと思っていたら、普通に曹洞宗の僧侶が般若心経を読み上げる普通のやつで眠かった。後で訊いたところによると、大学教員だった大叔父はかかわりの深い人も多く、スピーチする人に事欠かなかったからそれでも成り立ったのだけど、そこまでではない大叔母の場合そうもいかず、間が持たないなということになったらしい。なんともかんとも…って感じだけど、少なくても人を集めてなんとかセレモニーをまとまった形にするのに日本の仏教って一番手っ取り早いのだなというのを改めて感じる。

通夜の後、集まっていた親戚で葬儀場の食堂みたいな部屋で飯を食べながら、いろいろ話をしていて初めて知ったのだけど、祖母や大叔母は本当は9人きょうだいで、間に何人も知らない親戚がいたらしい。また2人とも出生から朝鮮半島で、祖母に至っては彼の地で10代の頃から先生のようなこともしていた、みたいな新情報もありいろいろ驚きだった。こういう話を知るほど、やっぱり生きてる内に直接聞きたかったなと思ってしまう。


『ヘルシンキ 生活の練習』朴沙羅

読んだ。とてもよかった。

いわゆる北欧のライフスタイルを安易に礼賛するようなテキストではなく、筆者がフィンランドでの子育てや仕事を通して、ここはここでおかしいのではみたいなツッコミを入れながら、優劣の話に矮小化せずに日本との違いを咀嚼して、日本における生きづらさの根っこにあるものを慎重に探るような内容だった。

社会とか公について考えるよいヒントになると思う。

だから、子どもは、世間というか人様というか、公に迷惑をかける存在ではないのだ。というか、公というのは「迷惑」の対象ではなく、私が利用する対象だ。私に背くものが公ではなく、公のために私が我慢しなければならないのではない。 私は税金の形ですでに公に奉仕し、公はそれをだいたい全員に配分する。配分を受ける量が少ない人(例えばその年たまたま健康で医療にかからなかった人)は、税金が戻ってくる。公は、多様な幸福を追求する個別の私のためにある。 (p264)


そのほか